神社参拝三様
ここのところ数年、毎年春になるとドライブがてら訪れる場所がありました。
山々の自然と花を楽しむこと、それから決まった神社に立ち寄ることを目的に。
その神社はわたしが人生の岐路にあって迷いの中にいたとき、よく訪れるようになった神社で、それから後も、なんとなく、自分の中の決意表明、どうしていいかわからないときに自分をまとめるため、それからお導きとご加護を期待して。。。訪れていました。
それでも、今年の春は行かなかった。
特に理由は無いのだけれど、、、
ここのところ毎年行っていたのに。
時期を逸してしまった軽い後悔のような気持ちと、
まぁ、それでいいよ、その時々で。と軽く思う気持ちがないまぜになっている今。
あれから、今を思うと、いつの間にか神社での参拝の仕方、神様に向き合う姿勢というのも変わったことに気づく。
「願い事を叶えてくれる」というような神社ではお願いさせていただくけれども、
神様にあれこれ自分の具体的なことをお願いするというようなことはしなくなった。
ただ、お参りさせていただく。
そんなことを思っていたら、思い出したことがありました。
数年前、春にこの神社を訪れたとき、わたしは結構深い迷いの中にいた頃。
勢い、本殿の前で参拝する際も、いろいろと念深くなっていたと思います。
祈る私の後ろから、20代後半~30代くらいの女の子の二人組がやってきました。
参拝に来たというよりは、土地勘無く、観光で遊びに来た、という感じ。
私はもう少し神様と向き合っていたかったので、女の子たちが参拝を終えたらまた戻ろうと、一旦本殿を離れました。
それで、
なんとはなしにその子の参拝を見て待っていたのですが、
その子はなんとも軽く、ぱんぱん☆と二礼二拍手し、お参りを済ませたのでした。
当然わかりませんが、「おいしいもの食べられますよ~に♡」「○○くんと両想いになれますよ~に♡♡」てな感じで祈っているような軽さ。不敬でもなく、何よりまったく深刻さが無い様子に、わたしはなんだか物凄く感銘を受けてしまい、それまでの自分の祈る姿、”ウ~~ン、ウ~~ン………”と深刻に(笑)。それがなんだかとても的外れなことのように感じ、拍子抜けしてしまったのでした。
あの感覚は今でも忘れない。
また、思い出したことがありました。
昨年、或る神宮に参拝したときのことです。前述の体験より後のこと。
その神宮は敷地内にいくつかお社があるのですが、それぞれを巡る度に見かける印象的な年配の女性がいました。というのは、それぞれのお社、特に本殿の前で、ず~~っと祈っているのです。何かを念じている!?感じ。私たち含め後続の他の参拝者もいますから、本殿の脇に逸れてずっと祈っている。
「余程、お願いしたいことがあるのだな」と思いましたが、なにかご本人の中での目的というのもあるのかもしれません。にしても、奇異な印象にうつりました。幸せそうには見えなかった。
歳を取れば、人生は複雑になっていくものですから。
若い女性 → わたし → 年配の女性 の順に祈りが深刻になるのも仕方が無い。
ともいえるかもしれませんが、本当でしょうか。
一概にそうとも言えない気もします。
これらの体験から振り返って、とりわけ最初のエピソードで私が感じたのは、
いつも、こんな(その若い女性が発していたような)軽いバイブレーションでいなさい、
ということでした。
(若さ礼賛!ということではありませんよ(笑)くれぐれも。
年齢は決め手にはならず、
若くても重く、歪んでしまっていることもあり
年齢を重ねて経験を積んだからこそ澄んでいくことや
年齢経験関係無く、軽く居られる方もいらっしゃいます)
生きていれば、深刻になってしまう体験もあるでしょう。自然なことです。
でも、何か、事がうまく運ぶ、とか、幸せ、というのは、
軽いバイブレーションでいる、ことから始まるのではないかな。
その感じを、自分自身と比して、あの時感じられたのは貴重でした。
いま、このブログを書きながら、また読み返す度に、あの感覚を思い出しています。