海と愛 

日々の暮らしと思うこと

5月某日

前日の夜、めずらしく22時半にベッドに入ったからか、夜中に目が覚める。3時半。

思いのほかシャッキリと頭が冴えて、目覚めてしまい、6時半、もしくは7時迄、まだまだじゅうぶん眠れるのだからと改めて寝る体勢に入り、1時間。眠れない。

目はつぶって、横になっているのだけれど。

 

今日はゴミ出しの日。

GWのあいだ、溜まりに溜まったゴミを出しに行く。GWの間も回収の日はあっただろうに、イレギュラーなことはしたくなくて、溜まるに任せ、いつもどおりのゴミの日に出しに行くと決めていた。

 

目もアタマもシャッキリと覚醒してしまっているので、もう起きてしまうことにする。5時頃だったか。

今の季節は4時半には鳥たちが囀り出す。

最高に気持ちのいい季節。

 

パンとコーヒーで簡単に朝食をすませ、

ゴミをまとめて出しに行く。

サンダルで表に出たが、思い直してスニーカーに履き替え。

朝食も摂ったことだし、ゴミを出してそのまま散歩に行く作戦。

 

早朝とはいえ、もう太陽は昇っているし、空気は爽やかで、新緑のやわらかくてみずみずしい若葉が風にゆれている。

栗の花がはらはらと落ちてくる。

 

もう庭仕事、畑仕事に出ている人がいる。

いまの季節この時間が最高なのを知っている。

 

散歩ルートの公園へ。

犬の散歩をしているおじさんがいた。

犬のリード以外、手に何も持っていない。

連れのワンチャンが粗相をしたらどうするのだろう。

公園を一周して、また出くわした。ワンチャンは公園の茂みで事を終えた様子。おじさんはポケットに入れていただろうコンビニの小さなビニール袋で回収したようだった。

 

散歩ルート途中にあるお宅。

季節ごとにかわるがわる花が咲いていて、いつも通るのが楽しみ。丹精しています、という雰囲気ではない、ごくごくナチュラルなのにどの季節もとりどりに花が咲いている。

蝋梅の香りは冬の散歩の楽しみだった。

今は八重のツツジモッコウバラが素敵。

 

それにしても 

今のこの季節の風の気持ち良さよ。

薫風。まさに。

 

しばらく見ないうちに、咲いている野の花も変わっていた。

 

向こうから黄色いものを背負った小さな人が来る。通りの脇からも同じ数人が出てくる。

GWのはざまとはいえ、休みではないのだなぁ、学校は。なんだか同情の眼差し。

子どもたちは小さいのに、学生服に身を包み、重そうな黄色いランドセルに、ナップザックを重ねて背負い、坂を登って行った。

眼鏡をかけた、もうすこし年長の女の子が「おはようございます」と挨拶してくれる。

「おはよう。いってらっしゃい」

なんだか、ことばに精一杯の気持ちがこもってしまう。

 

わたしは学校が嫌いではなかったし、勉強も嫌いではなかった。どちらも、楽しめていた。

それでも、子どもたちを見て、なんだかやるせない気持ちになったのは。

わたしが彼らのようだった頃から、もう30年以上経っているのだ。

もっと大きく変わって、進化していてもいいのにな。学校、とか教育とか。

服装ももっと自由にシンプルに軽くなって、

タブレット端末と数冊のノート、テキストで身軽に。紙本が好みならそれもあり。

学校に行けば個人のパソコンもある。

そんなふうになっていてもいいのに。

コロナでも経験済みだが、そもそも常に、毎日、ひと所に集う必要があるのだろうか。オンラインで十分なことって結構あるのでは?繰り返し見られるし。

朝も、もっとゆっくりでいいのではないかな。

 

朝から昼過ぎまで、週5日、そんなに勉強する必要があるのかな、とも。子どものやわらかいアタマに。

わたしは義務教育を受け終えた身だから、逆にそんな事が言えるのだろうか。

人生は長い。

学ぶことをあれもこれも、全部子どものうちにしておかなければならないというのも、なんだか変だし、苦しく感じる。

子どもの頃に座学で学ぶべき基本的な事というのはそんなに多くはないような気がする。

 

そんなことを考えながら帰宅して、7時。

子どもをおくり出すご家庭の人も大変だ。

 

それから思ったこと。

これからは年下とはいえ、子どもと話すときも大人に対すると同じように話そう。

可愛いとは思うけど、子どもを下に見る感覚というのは私には無い。

それをそのままに。

フランクな対応がふさわしいときは、フランクでいい。でも、さっき挨拶してくれた女の子は敬語だったのだから。わたしも敬語で返そう。