海と愛 

日々の暮らしと思うこと

自分のハートをすくうこと

散歩に出て

野の花を摘んで帰ることがあります。 

自然に少し分けていただいて。。

 

野の花は

売られている花よりももちが悪い気がします

夜に

LEDでは無い白熱灯とはいえ

明かりにさらされているのが良くないのかもしれない

 

ともあれ、この季節の春の野の花を

次々と楽しんでいます

花を飾ると

春の気を部屋に持ち込んだようで

春の妖精を部屋に招いたように感じます

花がないと寂しく思うように迄なりました

 

ふと、思い出したことがあります

子どもの頃

蓮華ばたけで手にいっぱいのれんげ草を摘んで帰ったことがありました

子ども心に

摘んで帰らずにはいられないくらい

一面の蓮華ばたけにわくわくして

ときめいていたのを憶えています

 

それで、家に持って帰ったら 母に

「野の花は、やっぱり野にあるからいいのよ。

家の中に飾るのは変」と言われ 

それからも、懲りずに野の花を摘んで帰る度に

「やはり野に置けれんげ草よ」

などと言われ続けて

いつしか私のときめいていたハートは

ぺしゃんこになってしまい、

「野の花は家に飾るものではない」という

「母の感性、母の意見」が自分の中での正、

になってしまいました。

 

それから、野の花を摘むことはしなくなっていたのですが

いま思うのは

上記の通り、

それはあくまで「母の感性、母の意見」だったのだということです。

 

また「やはり野に置けれんげ草」という故事があるからには、そういう感性が一般的、ということなのかもしれません。

 

しかし、生け花でも野の花を使うことはありますし、フランスでは「ブーケ・シャンペトル(野原のブーケ)」を楽しむ感性があります。

 

こう書いていて……↑↑

母親だの、フランスだの、

結局。

自分以外の、誰かの、どこかの意見、感性に従ってどちらが正しいのかを争うことは、的外れな事だと気づきました。

 

大切なことはつまるところ、

自分がどう感じているか、どうしたいかということ。

感じ方は人それぞれで

ほとんどのことは

どちらが正しいも間違いも無いことが多いような気がします。

 

やってみたいメイク、ファッションがあって、

わくわくしていたら、知ってか知らずか、

友達がそのメイクを「ああいうのって無いよね〜〜」と否定してきた。

それで、できなくなってしまった。

 

この仕事、この職場を辞めたいと心から思っている。しかし、周りの人たち、特に年長者が「嫌だろうけど、どこに行っても同じだよ。ここで勤まらないなら、他に行っても勤まらないさ」

それを真に受けて、我慢してずっとここに居る。

 

他人の、世間の、メディアの「正しい」意見で

自分のハートがぺしゃんこになってしまうこと

 

そちらの「正しさ」に従ってしまうこと

 

それでもハートは、

そのときはぺしゃんこになっても

必ずまた

膨らんでくる時があるような気がします。

そのときには、

自分自身が それをそっと包んで

そのまま膨らませてあげてほしい

わたしはそうしたいと思います。

 

自分にとっての「正しさ」はそれから確かめればいいじゃないですか。

野の花は、やはり野に置いたほうがいいと思うのか

そのメイクはどうか

嫌な仕事を辞めたら、その先に新しい人生が続くだけです

それからどう生きていくのか

 

自分の

ときめくハート、心の叫びをすくってあげてほしい。

そして、これからは、そもそもぺしゃんこにならないように、自分のハートを大切にしていきたいと思います。