海と愛 

日々の暮らしと思うこと

アナムカラ 池央耿さん

 

 数年前に出会った本。

 

 
 本の内容もさることながら、わたしの感性を刺激したのは、翻訳の文章の美しさでした。
 日本語表現の深み。いまだ聞いたことのない美しい日本語が、文章のなかに流れるように使われていて、読んでいて逐一、文章の中にきらりと光る宝石を見つけたようなときめきを覚えます。そして、その流れ自体も美しい。
 
 この方の文章表現の世界は、深み、高み、途方もなく豊饒で。原文をご自分の世界にくぐらせて、金を極上の金に変える錬金術のように、訳を、表現を産み出していく。匠の世界。
(比べるものではないけれど)同じ日本語を使っている日本人でありながら、自分の日本語がお子ちゃまプールのような浅さに感じてしまう。日本人であるのに、浅薄にしか日本語を使えないことがもどかしく、勿体ないことと思う。
 
 はたしてその翻訳をした方は、池央耿さんという方でした。
 
 はじめて、翻訳者の方の名前で、書籍をamazon検索しました。
 この方の文章が、日本語が、もっと読みたくなったのです。
 

 
 検索して出てきた本の中の一冊です。
 驚きました。
 この本は、以前、南仏旅行前に読みかけたものの、結局読み切れなかった本でした。
 南仏はわたしにとって縁のある土地なので、シンクロを感じて嬉しかったです。
 
 池央耿さんの翻訳と知ってから読み直してみると、こちらも珠玉の日本語に溢れていました。
 いつか使ってみたい、、付け焼刃承知で、メモしました。
 鬼哭啾啾、日月星辰、壺中之天、パリジャン某(笑)。。。
 これらをいつものお箸を使うように、さらりと使えるようになりたい、、
 
 

こちらの本も読みたいな。SFですね。

 

てか、今日ブログを書くのに検索していて、初めて出てきた。↓↓

こちらを先に読もう。

...これまで何回も検索していたのに、見落としていたのかな。

知ってたら真っ先に読んでいたと思うのだけれど、、今出てくるなんて不思議。。

 

 

 最後に。

 アナムカラの中から、わたしの心に残った一節をご紹介して終わりにしたいと思います。

 

変容を生む精神

 精神生活は変容の手段である。

 人はあらかじめ決められた形に合わせようと、力を加えて無理強いに自分を変えてはならない。

 (中略)

 意志をふりかざしてことに処するよりは、自分を空にして感受性を養う方がはるかに建設的である。人は往々にして、鉄を打って形をととのえるように、意志の力で自分を変えようとする。理知はプログラムされた目標を見定め、それに従って軌道修正を強いる意志が働く。が、こうして自身の純化を図るのはいかにも無謀な外形主義である。この行き方では、人は誤って自分を離れ、長年の間、不毛の荒野を彷徨う虞なしとしない。悪くすれば、自ら招来した飢饉で命を落とすことにもなろう。

 そんな時、心の持ちようを変えれば人は易々と無理なく自身に立ち返ることができる。魂は運命の地理を知っている。未来の地図を持っているのは魂だけである。それ故、人は自分自身の捉えどころのないあやふやな側面を信じて間違いない。その信頼が必ずや人を行くべきところへ導くのみならず、人生の旅の風情をも教えてくれるはずである。人の生き方に一般法則はない。さりながら、道連れのない旅人の署名はそれぞれの魂に深く刻まれている。自分自身に心を向け、自分自身に立ち返ることを願うなら、その旅にふさわしい歩度は自ずと知れる。感性は故郷の我が家へ続くなだらかな小径である。