ネガティブ性②
😕 ある種の感情に「ネガティブ」と言うレッテルを貼ることはあなたが前に説明したような、善と悪の二元論にとらわれることになりませんか?
🍀 それは違います。
二元性は感情を抱くまえに、
「今、この瞬間」を悪いもの、嫌なものと決めつけた時点で、生まれているのです。
すると、決めつけがネガティブな感情を生むのです。
😕 ある種の感情を「ネガティブ」と決めつけたら、その感情を抱いてはいけない、その感情を抱くことはオーケーじゃない、と言っていることになりませんか?
どんな感情でも批判せずに、自然なことだから、「それでいいんだよ」と受け入れるべきではないでしょうか?
嫌うのもオーケー、腹を立てるのもオーケー、イライラするのも、気分屋なことも、何だってオーケー。
そうしなかったら、感情を鬱積させて、葛藤や自己否定と言う、もっと始末の悪い事態にまでなりかねません。
どんな感情も、あるがままで「オーケー」じゃないのかな?
🍀 あなたの言っている事は、ある意味では正解ですよ。
一度ネガティブな思考、感情やリアクションが起こったら、それはあるがままに受け入れてしまうしかありません。
しかし、これは、「私には、選択する自由があるんだ」と、わかるほど意識のレベルが高まっていないときの話です。
これは批判でも何でもなく、単なる事実です。あなたにもし選択する自由があるなら、または、自分に選択する自由があるとわかっていたら、苦しみと喜びのどちらを選びますか?安らぎと不安のどちらを?平和と争いのどちらを?
あなたにとって自然である、幸福や生きることの喜びを切り離してしまう思考や感情を選ぶでしょうか?
そのような感情を、私はネガティブと呼んでいます。単純に「悪いもの」と言う意味です。
お腹の具合が悪いのと同じことです。
あなたの言う通り、自分の嫌悪やむら気、腹立ちをありのままに受け入れれば、もうそれらの感情にふりまわされて行動する事はなくなり、人に当たり散らす可能性が減るというのは、確かに事実です。
ただ、あなたは自分自身を騙していないでしょうか?
しばらくの間、この受容を実践していると、次の段階である、
「ネガティブなものをこしらえないレベル」に進むべきだと、感じる時がやってくるものです。
もしそうでないなら、あなたの受容は、エゴが不幸に浸るための、「私は万物から孤立している」と言う意識を助長する、思考のレッテル張りに過ぎません。
皆さんも、既にお分かりの通り、何もかもが離れ離れであるという原理は、エゴの存在の基盤となるものです。
本当の受容は、ネガティブな感情を、たちどころに全く別のものに、変えてしまえるのです。あなたが言ったように、もし何もかもが「オーケーである」と本当にわかっているなら(もちろんこれは真実です)、そもそもネガティブな感情を抱くでしょうか?
決めつけがなければ、「すでにそうであるもの(what is)」に対する抵抗がなければ、ネガティブな感情も、湧き上がってくるはずがありません。
あなたは口では「何もかもオーケー」と言っていながら、心の底では、「何もかもオーケーじゃない」と信じているのです。
だから相変わらず、思考と感情の抵抗パターンがあり、ネガティブな気分になってしまうのです。
🫧エックハルト・トール著 「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」より